自分にとっての東日本大震災

東日本大震災発生10年を前に

東日本大震災が発生してから 10 年になる.マグニチュード9.0の地震は私たちの想像を越える大津波を引き起こし,東日本の沿岸部に甚大な被害をもたらした.この地震により2万人も越える人々が亡くなった.また,津波が起こした福島第一原発事故の影響は未だに残っている.東北地方はプレートが重なり,地震が発生しやすい地域であるために,私は仙台で6回以上の震度5クラスの地震を経験しているが,東日本大震災は他の地震と比較にならない.そのため,10年が過ぎる現在においても思い出すことができる.将来,また東日本大震災規模の地震が発生した際に,少しでも他の人の力になれるよう,社会のために貢献できるようにするために,東日本大震災に関する自分の記憶を記す.

 

 

前知識:東日本大震災と400年前の津波の到達地点

Googole Mapにおいて浪分神社と震災遺構荒浜小学校の中間にある〇の地点が私が通っていた中学校であり,沿岸部から3.6 kmの距離である.私の中学校は震災遺構荒浜小学校の周辺も学区に含んでいる.東日本大震災の際に津波は南北に横断する,黄色で示された,高速道路まで到達した.400年前ほどにも東日本大震災規模の地震により津波が発生し,浪分神社地点まで到達したとされる.浪分神社はその津波が到達した際に,後世にこれより沿岸部方向へ集落を作らないように伝えるために建立したと言われたいたこのような津波の恐ろしさを伝えるモニュメントは東北に多くあったものの,震災前は眉唾物で現実に起こることとは信じられていなかった.高速道路がなかった場合,津波は私が通っていた中学校に到達して被害を与えていた可能性があった.

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学区の周辺地理


www.city.sendai.jp

東日本大震災発生時

1週間程前から大きくとも震度4クラスの小規模な地震が続いていた.宮城県民は2008年に震度5強の宮城岩手内陸地震を経験していたために,震度4クラスの地震はそこまで強い地震に分類しない人もいる.ただあまりにも地震の頻度が多すぎて気味が悪いという話を中学の友人達としていた.3月11日午後2時46分,私はサッカー部の皆と校庭で練習をしていた.地震が発生した際は,最近よくあることでさほど大きくはならないだろうと思った.ところが地震発生から数10秒後には聞いたこともないような地鳴りが響き始めた.そしてたちまちに地面が強く振動し,私達は皆地面に叩きつけられたかのように立つことができなくなった.湾曲したように見えるほど地面は振動し,電柱は倒れ,瓦が崩れ去り,卒業式のために校庭に並んだ先生方の車はぶつかり合う様が見えた.信じられないほどに大きい地震は一向に収まる気配はなく,比喩表現ではなくこの世界が終わってしまうのではないかと感じた.下の2つの写真は地震発生後の中学校の様子である.

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地震発生後の中学校の校舎と校庭

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地震発生後の中学校職員室

東日本大震災発生後

地震発生後はライフラインである,電気,水道,ガスは全て停止した.友人の携帯のワンセグでは7m規模の津波が発生するというニュースがあって,2階を超える大きさであることは分かるものの現実味がなかった.中学校は避難所となり,トイレを使えるようにするためにバケツリレーをした.バケツリレーをしている最中に,見たこともない数のパトカー,消防車,ヘリコプターがサイレンを鳴らしながら,沿岸部の方に向かっていく姿が見えた.

 

東日本大震災発生夜